高倉健が無口な居酒屋主人に扮した あまりに切ない悲恋物語と常連客の群像劇 “噂の男”居酒屋兆治の正体とは? オトコが惚れる男の中の男、高倉健が赤提灯のオヤジを演じた人間ドラマ。主人公の兆治と初恋の相手だったさよの切ない悲恋を縦糸に、店にやってくる面々の悲喜こもごもが綴られていく。 健さん演じる兆治は、モツ煮込みのネギを切る時に、はにかみながら「ちょっと待って下さいね、なにしろぶきっちょなものですから」と言う。この「ぶきっちょ」は手先の話だけではない。口も下手なら、生き方も不器用なのだ。 言葉が足りず誤解されることも少なくないこの男は、もちろん自分の過去など語らない。だが街の人々の噂話から、兆治の意外な過去や、今は牧場の奥さんにおさまっているさよとの因縁がわかってくる。さらにストーリーが進んでいくと、その噂話にはどうやら結構なウソが混じっていたことも…。どちらにせよ、兆治はこの小さな港町では“噂の男”なのだ。 そんな人々の好奇の目などお構いなし、当の兆治は結構幸せそうだ。映画の冒頭で彼の昼間の働きぶりが描かれるのだが、その嬉々として楽しそうなこと。昔はエリートサラリーマンだったというが、居酒屋のオヤジもなかなか性に合っているらしい。酔客のなだめかたも実直な男らしく、一見格好悪いが、すがすがしく小気味いい。 これぞ映画女優・大原麗子の真骨頂! そんな曇りのない兆治の生活は、元恋人さよの失踪で一変する。嫁ぎ先の牧場の出火はさよの放火で、彼女は気が狂っていた、と噂する人々。そして深夜、兆治の店には無言電話がかかってくるようになる。 良かれと思って別れたかつての恋人は、今も激しく兆治を思い続け、ついには自分をコントロールできなくなっていく。少女のような風貌に、狂気をはらんだ激しい気性を隠し持つさよを演じるのは、大原麗子だ。クライマックスの鬼気せまる演技には、これぞ映画女優、と唸りたくなる風格とドラマティックさがあふれる。 そう、昭和58年に撮影されたこの作品には、古き良き時代の日本映画のエッセンスが凝縮されているのだ。路面電車が走り、古い倉庫が立ち並ぶ函館を風情たっぷりに切り取った画面。どしゃぶりの雨の中、2人の男女がずぶ濡れる、しっとりした情感も印象的だ。一方で加藤登紀子演じる兆治の妻や、田中邦衛扮する幼なじみといった市井の人々を等身大で描きつつ、途方もなくドラマティックな悲劇を、大原麗子が一身に背負う。そしてそのすべてを、高倉健が無言でどっしりと引き受ける。 悪人は1人もいない。ただひたすらに、己の人生を生きる人々の映画だ。
文:谷藤さおり
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